カテゴリ:フォトエッセイ( 9 )

2016年 05月 01日
フォト・エッセイ 第九章 「コニカの光と影」
前回のフォト・エッセイ、フォト・エッセイ 第八章 「コニカのプライド」で、コニカブランドに対するJAZZ青年の心の迷いについて思いを記した。
その時、書ききれなかった今の私の思いを記していきたいと思う。

コニカ。
それはカメラ好きの皆さんにとっては、かなりマイナーなメーカーと言える。
むしろ、ちょっと危ない系のコレクターの世界ではなかろうか。
今私の手元には、9台のコニカ製一眼レフ達が集う。
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by jazz-photo | 2016-05-01 22:07 | フォトエッセイ | Comments(0)
2016年 01月 03日
フォト・エッセイ 第八章 「コニカのプライド」
以前、フォト・エッセイ 第五章 「魔性の黒」で、当時のJAZZ少年が父親を半ば脅迫気味にCanon FTb(黒)を手に入れたことを書いた。
実は、その時、Canon FTb(黒)にするかどうか迷ったカメラがあった。
JAZZ少年は17歳になっていたので、JAZZ青年と言っても良い頃だったが、カメラにはJAZZ少年なりのポリシーがあって、その狭間で揺れ動いていたのである。
それがKONICA FTAであった。
それにはJAZZ少年の憧れとも、敬意とも言える気持ちがあったのである。
しかも、端正なフォルムはまさに正統派一眼レフと呼ぶにふさわしいものだった。
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by jazz-photo | 2016-01-03 16:35 | フォトエッセイ | Comments(0)
2015年 01月 20日
フォト・エッセイ 第七章 「写真機の質感とは」
このフォト・エッセイをご覧下さって頂いてる方は、「フォト・エッセイ 第五章 「魔性の黒」」でかつてのJAZZ少年が黒いカメラに憧れを持っていたことはご存じだと思います。

中学生になる頃は、もういっぱしのカメラ評論家になっていて、お金のないガキのくせしてカメラの薀蓄では誰にも負けない位になっていたのである。
しかも、黒いカメラに関してはもう、目がハートマークになるほど恋してしまっていた。
この頃のカメラは外装が真鍮でできていて、今のように強化プラスティックやマグネシウム合金ではなかった。
殆どがプレス機で成形されていて、現在の金型を使った成形法ではなかった。
当時のカメラの持つ金属特有の冷たさと温かさ、真鍮フェチのJAZZ少年の憧れをどんどん加速させていったのである。

それから月日が経って、ある事件が起きた。
何と、真鍮外装ではないカメラが現われてしまったのである。
それは、「チタン(Titan)」。
しかも、そのカメラは市販されたものではなく、冒険家として有名な「植村直己」氏の北極点単独到達のために特別にNikonが製作したカメラ「Nikon F2 植村スペシャル」だった。
極寒のもとで耐久性を発揮する金属って一体何?

純真無垢なJAZZ少年から今はJAZZオヤジになってしまったが、その憧れは今でも変わらない。
いくつかの遍歴を経て、今、手元にあるチタン製カメラがこれである。
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by jazz-photo | 2015-01-20 19:07 | フォトエッセイ | Comments(0)
2014年 11月 18日
フォト・エッセイ 第六章 「優しい名前」
このブログで2009年に「フォト・エッセイ 第一章 「柱のカメラ」」から第五章まで書いてまいりました。
随分間が開いてしまいましたが、続きを書いていこうと思います(^^;)。

その名前は「MIRANDA」。
ミランダカメラが誕生したのは1957年でした(前身は1948年)。

1960年代、JAZZ少年は寝ても覚めてもカメラ、カメラ、カメラの毎日だった。
それは、まるで祖母が仏壇の前で唱えているお経のような・・・・・。
もちろん、憧れは日本光学、キャノンの二大ブランド。
それ以外は、気になるもののどうしても欲しいという意欲はあまりなかった。
しか~し、MIRANDAだけはどうにも気になって仕方なかった。
なんで、女性の名前なんだろうか??
確かに、雰囲気は女性的だけど、どうも安物メーカーのイメージだしなぁ」と言うのが本音。
当時はとうとう買えずじまいで、「JAZZ少年を悩ませたMIRANDA」を手に入れたときはJAZZ少年はJAZZおやじとなってからのことだった。

それがこのMIRANDA SENSOMAT REだった。
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by jazz-photo | 2014-11-18 20:08 | フォトエッセイ | Comments(0)
2009年 02月 21日
フォト・エッセイ 第五章 「魔性の黒」
 写真を撮るテクニックやカメラの扱いに慣れてきた頃、やはり『PETRI V6』では撮影に限界と言うものがあることが判ってきた。
こうしてみると、高級機と入門機との大きな違いは、撮影できる『可能性』の違いとメカとしての『信頼性』の違いであることが実感された。

 しかし、中学生の身では高級機などとは縁がないのは当たり前である。
ある時、母の付き合いで、市内のデパートに買い物に行った際、一階に新しいカメラ店が開店していることに気づいた。
そのカメラ店は『オプト』と言う店で、間口の狭い本当に小さなお店だった。
入口から覗いてみると小さなショーウィンドーがあってその前にやはり小さなカウンターがあるだけだったが、そのカウンターの上にある『モノ』に視線が釘付けになった。
そこには、やはり『Nikon F』と同じく当時のJAZZ少年の憧れの的であった『Canon PELLIX』と言うカメラがさりげなく置かれていたのである。
『Canon PELLIX』と言うカメラは、当時のキャノンが威信をかけて開発した高級一眼レフで、革新的なメカを採用していたにもかかわらず商業的には決して成功しなかった悲運のモデルであった。
しかし、そんな悲運さも裏を返せば売れていないと言うことであり、実に珍しいカメラであった。
カタログ以外で、実物を初めて目にした興奮のため、その夜はなかなか寝付かれなかった。
それ以来、あのカメラ屋さんが気になって仕方がなかったのだが、中学生が入れるような雰囲気ではなかった。
そこで、蝶を撮影したフィルムを『オプト』さんに現像依頼すれば店に入るきっかけになると考えて、思いきってお店に入ってみたのである。
お店に入ってみると、店内には優しそうなお姉さんが一人で切り盛りされていて、カウンターの上には先日見たあの『Canon PELLIX』が置かれていた。
恐る恐る聞いてみると、この『Canon PELLIX』はお姉さんの個人的持ち物と言うことであった。
そのカメラには憧れの大口径レンズ58mm/F1.2が付いていた。
その話題でお姉さんとはカメラ談義に花が咲いて、それ以来このお店がJAZZ少年のホームグランドになったのである。

 しばらくして、お店に蝶を撮影したフィルムの現像を頼みに言った時、お姉さんが、
『PELLIXが好きなら、貸してあげますから使ってみたら?』
『お店の商品じゃないし、気兼ねは要りませんよ。』
『私は今、あまり使っていないし、大丈夫だから。』
と言ってくれた。
普通だったら、大人の給料一か月分より高いカメラを単にカメラ好きのガキに貸してくれるような奇特な人なんていない筈である。
今考えれば、随分思い切ったものだ。
当時のJAZZ少年は好奇心が何より先行していたのか、二つ返事でその貴重な『Canon PELLIX』を借り受けた。
使ってみると、これが私の『PETRI V6』とはまさに雲泥の差であった。
気持ちの良い操作感で、これぞカメラという感じだった。
実は、それからウン十年経過した今、JAZZオヤジは当時の憧れだった『Canon PELLIX』を手に入れたのである。
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思い出の『オプト』もそれから間もなく閉店してしまった。
何の御礼も出来ないまま、ある日突然に『オプト』との縁は切れてしまったのである。
いつも中学生のガキに優しく接してくれたあのお姉さんは、今でも写真を撮っているのだろうか?
『Canon PELLIX』を見る度に思い出すのである。

 一方で、相変わらずJAZZ少年は『PETRI V6』で野山の蝶を追い掛け回し、何時しか高校二年生になっていたのである。
しかしその頃、流石の『PETRI V6』も使い過ぎてガタが目立ち始めた。
そして、『新しいカメラが欲しい』病が発症したのである。
どうせ買うならブラックボディーが欲しいと思うようになった。
何せ、今のおもちゃの様な単に黒いカメラとは全く別物の、手工芸品的な『美』を感じさせるカメラだったのである。
真鍮の上に丁寧に塗装を施した美しいカメラだった。
当時、なぜブラックボディーが必要かと言う議論がカメラ雑誌にまで載っていた時代である。
やれ
『戦争地域での取材では、銃弾を受けないためには目立たない黒のカメラが有効である。』
とか、
『スナップ撮影では、相手にカメラを意識させない。』
とか。
そんなのは実は、単なるこじつけで真っ赤な嘘である。
理由は単に。
「格好良い」だけである。
どうも当時の評論家は素直ではないようであった。
そうして、苦労の末に手に入れたのが『Canon FTb』だった。
これまでには父を説得する長い過程があって、まるで脅迫のようにパチンコの浪費を散々指摘して、仕方なく買わせたような節も無きにしもあらずだった。
父は実に嫌そうに買ってくれた。
一方で父は、私の大学合格祝いの前倒しだから、合格してもこれ以上は買ってあげないからと、私に約束させたのである。
敵もさるものである。
実にしたたかである。

 しかし、そうして半ば親を脅迫して手に入れた、憧れのブラックボディーは実に美しく、現代のカメラにはない『塗り』による光沢が実に見事だった。
このカメラは今も現役で私の手元にあるのである。
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 そんな訳で、カメラはほぼ満足できるものを手に入れる事ができたが、やはり技術だけはいかんともしがたかった。
4年間で写真の腕は多少進歩したとは言へ、やはり自己流が故の壁と言うものもあった。
そんな時、当時高校生では興味ないと思うような、LIFE写真講座を始めたのである。
世界的雑誌『LIFE』のカメラマンによる解説講座である。
はっきり言って、これには心酔した。
写真という分野が奥深いものとは思いも寄らなかった。
当時の解説資料の大部分が手元にはなくなったが、このハンドブックだけは大切に今でも保存しているのである。
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いわば、現在の原点とも言えるハンドブックである。
写真の基礎を解説したこの冊子は、いまだに私にとってカメラ以上の『宝物』なのである。
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 そんなJAZZ少年も今や立派なJAZZオヤジになって、30台以上のカメラや40本以上の交換レンズを所有するカメラオタクになっている。
しかし、『梅娘』から始まったカメラとの付き合いは、こうしてブログを通じて色々な方々との交流を生み、写真の面白さを改めて教えてくれたのである。
父の『柱のカメラ』は、今や写真という枠を超えて、人間としての大切な繋がりを生み出して、このブログを見てくださっている全ての方との交流の源になっているのである。

by jazz-photo | 2009-02-21 16:11 | フォトエッセイ | Comments(8)
2009年 02月 18日
フォト・エッセイ 第四章 「生あるもの」
 中学生になってからは、数学のT先生の影響もあって生物部に入った。
T先生は県内でも有数な蝶のコレクターであり、結核で片肺がないにもかかわらず、日本中を採集して回るような強者だった。
 県内でも先生だけしか採集記録のないような珍しい蝶も集めていて、JAZZ少年はそのバイタリティに興味を引かれたことと、理科室にはT先生の採集した蝶の標本が飾ってあって、その美しさに目を奪われてしまったのがきっかけだったと思う。
 以来、私も蝶の図鑑を読み耽って、未だ見ぬ珍しい蝶の飛ぶ姿を想像して、捕虫網を持って野山を駆け回るちょっと『健全』な昆虫少年になっていた。
中学二年生の時には、ミヤマカラスアゲハの蝶道(ミヤマカラスアゲハは縄張りを作って、巡回する性質を持っている。)のコースや蝶道の周りの植物相を調べあげて、夏休みの研究に対する賞を受賞したこともあったのである。
 私は夏休みに県北部の山中で、大好きなクジャクチョウを採集して標本を作った。
しかし、どうもしっくり来ないのである・・・・・。
飛んでいる時はあんなに美しかった羽の色も、標本にしてしまうと色褪せてしまってどう見ても美しくないのである。

 そんな夏休みのある日、社会科のS先生のご自宅に誘われて遊びに行ったことがあった。
S先生もカメラ好きで、学校では学校新聞の顧問をしておられ、肩からカメラを提げた姿を私もよく見ていたので、カメラの話が出来ると思うとちょっと嬉しかった。
お煎餅を食べながらカメラの話をするうち、例の標本の色に関しての話題になった。
私が美しくないと言う話をした時、S先生は、
『おまえはカメラが好きなんだから、標本にしないで写真にしたらどうなんだ?』
『それなら、蝶を殺すことだってしなくて良い筈だろ?』

確かにそうだった。
JAZZ少年にとって、S先生の『殺す』と言う言葉がとてつもない重みを持って響いてきたのである。
確かに、標本にするということは『生あるもの』の命を奪うことに他ならないことに、強い衝撃を感じた。
今でこそ、釣りを楽しんだりしてそれなりの『殺生』をするのだが、当時はもっと純粋なJAZZ少年だった。
実は、写真で蝶を撮るなんて考えもしなかったし、出来るとも思わなかった。
一眼レフカメラで『梅娘』を撮るようなませた少年ではあったが、採集という行為が『生あるもの』の命を奪うことになるとの考えまでは到底及ばなかった!

 JAZZ少年はその日を境に、捕虫網をカメラに持ち替えた。
しかし!
現実はそんなに甘くはなかった。
全く写真にならないのである。
目では楽々追いかけられても、カメラのファインダーから覗くと、あの間延びしたようなモンシロチョウの羽ばたきでさえ、とてつもなく速く見えて、ピントを合わせる余裕すらなかった。
花に止まった蝶を狙おうとしても、標準レンズでは小さくしか写らないし、かと言って近づくと飛び立ってしまうしで、写真を撮ると言うことがどんなに難しいかを身をもって知る結果となったのである。
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『梅娘』は飛び立たなかったので、写真の難しさや奥深さに気がつかなかったのである・・・・・(汗)。
 それからは、勿体ないのでフィルムを入れないで、キアゲハやモンシロチョウ等の身近な蝶でピントを合わせたり、シャッターチャンスの取り方などのカメラワークの練習に明け暮れ、生物部の中でも『ちょっとあぶない系』の存在になっていった。
 でも、その甲斐あってか、写真の腕は格段に進歩した。
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『梅娘』も以前よりずっと綺麗に写せるようになっていたのである。

ここに使用した写真は、現在のJAZZオヤジが撮影したもので、当時の写真ではありません。
あしからずm(_ _)m。
当時のネガは、父が自宅を改装する際に全て燃してしまいましたので残っておりません。


by jazz-photo | 2009-02-18 21:46 | フォトエッセイ | Comments(6)
2009年 02月 17日
フォト・エッセイ 第三章 「Nikonと言う特別」
 K先生のカメラで知った『Nikon』のカメラ。
父のマミヤシックスしか知らなかったので、子供心にもNikonってどんなカメラなんだろうと言う興味が大きな期待感を伴って湧いてきたのは確かだった。
 
 駅前にSカメラと言う、当時としては大きなお店があった。
正面から覗くと大きなショーウィンドーの中に沢山のカメラやレンズが並べられていて、 その中でも、カメラの正面に三角形の出っ張りのあるカメラが目に付いた。
そして、それはJAZZ少年が初めて目にした一眼レフカメラだった。
当時、そのお店はSONY製品も扱っていて、ステレオでクラシック音楽も流していたので、私は音楽を聴く振りをしてショーウィンドーの一眼レフカメラに額をくっつけるように見入った。
きっと、店員さんはショーウィンドーに付いた少年の涎を毎日拭かなければならない羽目になっていただろうと思う。
そのショーウィンドーの中の一番高く目立つ場所に、K先生のカメラでも見慣れていた『Nikon』の文字が三角屋根に刻まれたカメラが鎮座していた。
それは、いくつもの神話を生んできた名機『Nikon F』だった。
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『そんなにカメラが好きかい?』
『それなら、特別にこれあげるから!』

ある日、何度も何度もショーウィンドーを覗くJAZZ少年に、店員さんは親切に『Nikon F』のカタログを差し出してくれた。
大人だって、買う見込みのない客には渡さなかったようなとても立派なカタログだった。

 読んでみても知らない言葉や横文字が並んでいて、何のことかは理解できなかったが、カタログに載っているカメラの写真を毎日毎日飽きもせずに眺めていた。
カタログで初めて見た色々な形のレンズ。
いかにもプロの道具と言う感じのするブラックボディー。
どれもこれもが、JAZZ少年のカメラに対する憧れを後押しするような目に見えない力となっていったような気がした。
そのうち、『Nikon F』はどうやらプロカメラマンが使うカメラらしいこと、一般の人には高価で縁のないカメラであることなども朧気ながら分かってきた。
しかし、顕微鏡の世界から星の世界まで撮影できるようなシステムカメラであることなど、カタログの文言はJAZZ少年の心を更に躍らせた。
それと同時に、『Nikon F』はJAZZ少年がどんなに憧れようと、絶対に手にすることの出来ない神の領域のカメラであることも身にしみて感じたのだった。

 しかし、世の中、そんなに高価な一眼レフカメラばかりではなく、何とか一般の人でも買えるような価格帯のものもあった。
中学生になったJAZZ少年は、そんな情報をせっせとかき集めて、父の大好きなテレビの上にわざとカタログを置いて、否が応でも父の目に触れるようにする作戦をとったのだった。
 その作戦が功を奏して、中学2年生になった春に大衆機ではあったが、念願の一眼レフカメラを買って貰ったのである。
『PETRI V6』と言うカメラだった。
1/1000秒がない、シャッターボタンが前に斜めになって突きだしている、等明らかに『Nikon F』に比べれば見劣りする外観や性能だったのだが、それはそれ!
どんなに見劣りしようが、なんたって一眼レフカメラには違いなかった。
JAZZ少年は枕元にカメラを置いて寝たのだった。
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 さて、せっかく買って貰った『PETRI V6』で最初に撮影したものとは・・・・。
実は、これが今自分で考えても分からないくらい変なのである。
「どうして?」、「なんで?」、「Why?」・・・・・・。
今で言えば『うっそ~! 信じらんな~い!』なんて言われそうなくらい、およそ中学2年生のガキが撮るようなものではないのである。

それは、梅が盛りの偕楽園で笑顔でポーズをとっていた『梅娘』だった。




今では立派なメタボオヤジになってしまった、かつてのJAZZ少年は、クロームとブラックのNikon Fをそれぞれ所有しています。
確かに今の時代、憧れのNikon Fを中古で購入することは容易いのですが、自分の手で実際にカメラを触ったり操作していると、やはりカメラとしての歴史の重みや精密機械としての魅力は計り知れないものがあります。
購入しないまでも、中古カメラを扱っているお店に行かれましたら、是非ともNikon Fを手にとって見てください。
きっとその魅力の一端は感じていただけると思います。


by jazz-photo | 2009-02-17 21:55 | フォトエッセイ | Comments(7)
2009年 02月 16日
フォト・エッセイ 第二章 「先生の夢」
 五年生の二学期も終わろうとする頃、私は父の転勤で地方に引っ越すことになった。
初めての転校である。

 当時、東京での学校の成績に関しては、全く良いところがなかったJAZZ少年であったのだが、母は東京より人口の少ない地方に転校すれば多少なりとも成績は上がるのではと淡い期待をしていたようだった。
 そんな母の期待を一身に背負った私ではあったが、全国どこに行こうと教育レベルなどそんなに違いのある筈もなく、生徒数も大差なかったために、母の期待をものの見事に裏切って、いつもの後ろから数えた方が早い定位置に落ち着いてしまったのだった。
母の落胆振りは想像に難くないが・・・・。

 そんなJAZZ少年ではあったのだが、転校後まもなくとんでもない事件が起こった。
市が主催する記念式典にお声が掛かったのである。
私にしてみればまさに偉業とも呼べる出来事であった。
何しろ、腐っても鯛!
代表みたいなもんですし!
しかし、担任のK先生に職員室に呼ばれた時、
『おまえは標準語で話せるんだから、しっかりやってこいよな!』
って、「標準語で話せる」のが理由だった。
掴みかけたJAZZ少年の自信は、薄氷のように割れていったのである。
もう一人の女子も転校してきた生徒だったらしいが今となっては真偽のほどは不明・・・・。

 そのK先生は、無類のカメラマニアであった。
サラリーマンの平均年収にもなるような高価なカメラを持っていた。
私の記憶によれば、それは、Nikon SPであった。
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それも複数台所有していたのである。
 もちろん、その当時はそんなに高価なものであるなんて、ちっとも分からなかったが。
そのK先生には、お気に入りの生徒がいた。
学級委員のHだ。
確かに成績は良いし、性格は温厚で、K先生自慢の生徒であった。
休み時間に、K先生がいつものようカメラで生徒達の写真を撮っていた時である。
『おい、H』
『お前がT大に合格したら、このカメラをあげよう!』

と言ったのである。
それを近くで聞いていたTが、
『おれが、入ったらくれるよね?』
と、おどけて言ってみせた。
K先生は、
『そうだな~、あげても良いよ!』
と答えていたが、その言葉にはちょっと力がなかったようだ。
しかし、そのことでJAZZ少年にとっては、父のカメラとは明らかに違う意味で、カメラが特別な存在になり始めていたのである。
たかがカメラではあったが、それは先生の期待を一身に背負うほどの価値のあるものだと言うことが分かったからである。

 今で言う依怙贔屓だとは判ってはいたが、それはそれで先生らしい「教師としての夢」があって私は反発を感じなかった。
それは、カメラをあげるあげないの問題ではなく、K先生はご自分なりの夢をそんな形に変えて冗談のようなつもりで言ったまでだと思う。
第一、Hから比べれば、算数や国語の成績が『2』のJAZZ少年は眼中にはなかったのだから!
K先生は、教え子がT大に合格することを心から願っていたに違いなかった。
それは、教え子にカメラをあげてでも願わざるを得ないような先生の大きな大きな夢だったのである。

しかし、その夢の行方について、K先生は分からぬまま他界されてしまったのである。
もちろん、私自身もHがT大に入ったかどうかは、知る由もなかった・・・・・。

by jazz-photo | 2009-02-16 21:12 | フォトエッセイ | Comments(12)
2009年 02月 16日
フォト・エッセイ 第一章 「柱のカメラ」
 私がまだ小学生だった頃、私の家族は東京の府中に暮らしていた。
それは、今では全く見られなくなった長屋風のボロアパートで、お世辞にも綺麗とは言い難い代物だった。
 学校から帰ってきて、玄関口で『ただいま~!』って言いながら駆け上がると、勢い余って裏口に抜けてしまうような家だったのである。
もっとも、どちらが玄関でどちらが裏口なのかは今もって判別しがたいものではあった。

 私の父は、陸上自衛官であった。
給料もそんなに高くなかったのかもしれないが、無類のパチンコ好きで、日曜になると、せっせとパチンコ屋に通い詰めた。
それ以外の趣味と言えば、プロレス中継の観戦だった。
プロレス中継の時間になると、電気屋のショーウィンドーに人が群がった時代である。
何を思ったのか、ある日、父は一般市民には縁がないと思われたテレビを買ったのである。
突然に・・・・。
新品のテレビは、長屋には不釣合いのように神々しく、ブラウン管の前には横綱の化粧廻しのような立派なカバーが掛けられていた。
父はこれで、心置きなくプロレス中継を見られる・・・・・、筈であった。
しかし、状況は思わぬ方向に向いていってしまったのである。
プロレスの中継時間が近づくと、近所の人々が座布団を持って狭い我が家に群がり、テレビを買ったはずの肝心の家族は、人々の肩越しにしか見ることが出来なかったのである。

 そんな父が、ある日突然に、草臥れたカバンの中から茶色く四角い箱を取り出した。
『こんなの見たことあるか?』と言いながら、箱を開けると、そこにはまた黒い箱が納まっていた。
父が小さな銀色のボタンを押すと、『カシーン』と言う音を立てて、レンズが飛び出してきたのである。
『これは、マミヤシックスって言うカメラなんだぞ!』
『凄いだろう?』
子供心に、何が凄いのかは判らなかったが、とにかく高価そうなことだけは判ったような気がした。
なにしろ、我が家で『精密機械』と呼べる初めての『ブツ』だったのだから。
父の話を聞くうち、どうもこれは買ってきたものではないらしい、と言うことも判ってきた。
父の弁によれば、職場からの帰りの電車の中で拾ったのだそうだ。
こんな高価なものを落とす方も落とす方だが、国家公務員ともあろうものが警察に届けないで持って帰ってきてしまうことには呆れたものだった。
その頃小学生だったJAZZ少年でさえ、学校では『何か拾ったら、警察に届けましょうね!』って教育されていたのに!
当時の一か月分の給料より、カメラの方が絶対に高かった時代のことである。
もう、その父も亡くなってしまったので、今、ここでばらしても事情聴取を受けることはあるまいが・・・。
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しかし、父がそのカメラで写真を撮っているところを私はついぞ見たことがなかった。
もしかしたら、写真には興味がなかったか、それともフィルムを買ったり、現像や引き伸ばしをしたりする小遣いがなかったのかは、今となっては分からない。
せっかく、我が家にやってきたマミヤシックスではあったが、そのカメラはJAZZ家の家族写真を一枚も写すことなく、息子の成長を記録することもなく、ただ、家に中に下がっていた。
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そう、柱に打ち付けた釘から下がっているだけであった。
もし、カメラをどけたら、そこだけ柱の色が白いのではないかと思わせるような、時の流れの中で静かに下がっていたのである。
それが、JAZZ少年とカメラの出会いであったのである。

by jazz-photo | 2009-02-16 00:45 | フォトエッセイ | Comments(14)